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1978年、小学生の僕は静岡にやってきた生のボルシアMG(当時、西ドイツ)に興奮していた。中心選手はデンマーク人で初めてバロンドール(欧州年間最優秀選手)に輝いたシモンセン。その名選手を、どういうわけか、うちのオヤジが夜の街へ連れ出した。僕もちょっと呼ばれて、165センチの金髪の彼と握手した。キャバレーで出会ったシモンセン。それが僕とキリンカップの出合いだった。
日本代表が初優勝した1991年大会。バスコ・ダ・ガマはブラジル代表がそろい、ベベットらが本気で戦っているのがすぐ分かった。ブラジル留学時代にも対戦した本気のバスコと日本代表として戦い、2-1。“セレソン(ブラジル代表)”のGKからゴールできたのもうれしかった。トットナム(イングランド)は「どうせ勝てる」と日本をなめていたけれど、僕らはこれぞカウンターという一撃を決める。あの4-0での勝利は爽快だったね。
まさに日本サッカーは高度成長期だった。今でこそ成長は落ち着いたけど、当時は日本がどこまで上がっていくんだろうという期待、強国に日本は勝てるのかという関心のなか、勝ち進む代表に人々が一喜一憂していた。ストイコビッチ(現名古屋グランパス監督)やサビチェビッチを擁する最強で最後のユーゴスラビアに、僕のゴールで競り勝ったのは1996年。ちょうど2002年ワールドカップ(W杯)招致合戦のまっただ中で、メンバーは「メキシコも下して優勝すればW杯も日本開催になるんだ」と信じ込み、並々ならぬ緊張感でピッチに臨んだものだった。
「ブラジルでプロだったとしても、特別扱いはしない。おれの言うことには従ってもらう」「従いますけど、ブラジルでやったかどうかに関係なく、僕はプロとして疑問に思えば意見は言います。監督と選手、プロとして五分です」。
1991年の大会前、横山謙三監督と喫茶店で向き合ったのを思い出す。10分で終わるはずの面談は2時間の激論に変わった。お互いに本気だった。だから言い争った。
その横山さんと抱き合って優勝を喜んだのを覚えている。頑固オヤジが珍しく、ニコッと笑ったのがかわいくて。あの横山さんと一番仲良くなれたのも、僕だろうと思っている。