BOA SORTE KAZU

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BOA SORTE KAZU

“サッカー人として”  2024年10月11日(金)掲載

“サッカー人として”
2024年10月11日(金)掲載

「同じ鍋の中身」を超えていくもの

 サッカーの現場も人間による社会には変わりなく、政治の世界のように「派閥」と称さないとはしても、それに類した集団はどうしてもできてくる。同郷、同じ出身校。試合に出られる人たち、外れてしまう人たち、その間を行き来する立場の人たち。似た境遇にある人間同士はごく自然とグループを組む。


 個人主義の強そうなブラジルでも、「パネーラ」という言葉をよく耳にした。「鍋や鍋の中身」の意で、転じて「閉鎖的な集団」といった意味合いがある。


 とあるロッカールームの光景。ボス的な存在がいて、彼にたむろして付き添う人がいる。傍らには誰ともつるまない一匹オオカミもいれば、誰とでも仲良くやれるやつもいる。やがてパネーラの間で権力構造めいたもの、序列がつくられる。大小や程度の差はあれど、イタリアでもポルトガルでも習性は同じです。


 「あの監督だから俺はこうなんだ」。出場機会のない連中が集まり、管理者や、自分とポジションのかぶる人間への不満を吐き出す。不遇への嘆き、別のパネーラへの悪口。スポーツ界に限ったことでもないんじゃないかな。


 パネーラで愚痴を言い合うのか、何か前向きなエネルギーを交わし合えるのか。伸びない選手と伸びる選手がそこで分かれてくる。僕としては、愚痴のムラに関わるのはごめん被りたい。


 肌感覚の合わない人はいるし、親しい間柄になっていかない人もいる。それでも人付き合いでは相手の何かいいところを探そうとしてきた。属するところが違うから嫌だ、駄目だではなく、いいものなら何であれ取り入れていきたいと。


 「カズを利用しようと近づいている」と端からは映る人でも、一概に遠ざけるべきものでもない。僕自身が判断をしっかりしていさえすれば、僕の利用価値が見いだされ、新たな価値が生まれるかもしれない。色々な人々と接することで見えてくるものが広がるし、自分とは別の集団の価値観、意見から生じる良きアイデアだってある。


 集団なるものに正と負の両面があると理解したうえで、流されないように、健全に疑う心を常に持っていたい。自分が正しいと信じることや自分の属する集団で是とされることでも、時には考慮の対象にしてみる。誰よりも自分自身が、自分たちを問い、疑ってみるということ。


 ピッチの内側では、様々な立場の人々がそれぞれに一物を抱えてはいても、勝利という目標へない交ぜになってひた走ることができる。派閥もパネーラも超えていける。


 10月6日のアトレチコ鈴鹿の勝利を朴康造監督と喜び合う。僕が32歳で京都サンガにいた時、彼は19歳だった。寮の201号室の僕を「師匠」と慕ってくれた202号室の彼が、44歳の監督となり、「カズ、いくぞ!」とピッチへ飛び出す57歳の僕の背中を押す。帰属も属性も関係なくなるような、えも言われぬ一体感や高揚感。これを味わえる世界が、どこか他にあるでしょうか。