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言わずもがなではあるけれども、五輪は4年に1度だということを、よくよくかみしめなければと思う。
4年ごと、もっと言えば4年間にとどまらない長い時間を、一つの競技にかけて、相当な負担や犠牲を払って生活していく。喜びの涙であれ悔しさの涙であれ、パリ五輪での選手の発言や表情は、その重みを物語っている。
今年だめでも、また来年に巡ってくるものであれば、また違う。それこそサッカーのリーグ戦ならば悩む暇もないほどにどんどん次の試合がきて、立ち直る機会になりもする。次は4年後となると、ワールドカップ(W杯)もそうだけど、のしかかるものの質が違う。
その重みのいくらかでも想像することができたなら、五輪アスリートの号泣、ぼうぜん、感涙といった感情のほとばしりを、理解できるのではと思うんだ。
ちょうど、バレーボール男子準々決勝の日本-イタリアの佳境を目にすることができた。日本が2セット先取しての第3セット、24-21。あと1点のマッチポイントから、瞬く間に追いつかれ、フルセットの末の敗戦に追いやられた。
勝負の世界の厳しさを痛感するとともに、僕はあの「1点取られたら終わり」の場面のイタリアの選手たちはどんな心境なのだろうと、カメラで大写しされる表情を追わずにはいられなかった。
冷静に淡々とやっているようにもみえる。でも胸の内では絶望にとらわれているだろうか。窮地だとしても不安そうにプレーしていたら駄目なんだろうな。日本側はどうだろうか。わずか1点だけれど「いや、そう簡単には取れまい」とこわばっているかも。自分も、こうした場面で用心しがちだものな……。
そんなせめぎ合いの頂点で、ミスするリスクの大きいジャンプサーブをコースギリギリに狙っていく、ただ者でないメンタル。やらないことで得る成果より、やったことの帰結を求める一心なのかもしれないね。
サッカーでも、これを決めれば勝てるといったPKなどで「魔物」に忍び寄られるときがある。自分が得点を挙げた試合中のPKは自信を持ってスポットへ向かえる。これがどこか調子が悪いと感じる試合でのPKだと、同じスポットで良からぬ思いがよぎる。それでも、何度もPKを任されてきた身からすると「このキックを蹴らないで後悔することはしたくない。自分が蹴りたい」と、腹をくくれることが多い。
初めての五輪だから怖いもの知らずで戦える人もいる。守るべきものを自覚し、「失えない」といった意識が芽生えた途端、身を縛るプレッシャーがむくむくと沸き起こる。勝負の世界に魔物がいるとしたら、その魔物は、おそらく自分自身でつくり上げているものだ。勝負する相手は、敵じゃなく、自分なんだね。
自分の方が相手より厳しい鍛錬に耐え、時間も費やしてきた。だからといってそれだけで勝てる場でもない。勝つときもあれば負けるときもある。それでも目標に向かって1センチでも進んでいく。賭するものも自分への期待も大きいからこそ、魔物に住み着かれる。でも、向き合っていく。
4年に1度の祭典は、誰もがたどる道のりの縮図なんだろうと感じます。