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ポルトガルから帰国するにあたり、固く心に誓ったことがある。「日本に着いてから自主トレを始める6月6日までは、俺はもう、サッカー選手じゃない。ミッドナイトサーファーだ」
チョメチョメもないストイックな毎日から一転、夜行性生物のごとく歓楽街へ繰り出し、異性と戯れ、本能のまま楽しむ。そうやって味わい尽くしてみて、店のトイレで一息つきながら、持ち崩したなれの果ての自分を鏡の中に見つける。
「だめだ、こんなことを続けていては。これが最後だ。明日からは選手に戻るんだ」。諭すように、鏡像に向かってつぶやく。
桃源郷の日々がどれほどまばゆくとも、1、2カ月もそれ一色では、つまらなくなる。自分でもうすうす分かっている。逸脱や非日常が楽しく思えるのは、戻る場所、日常があってこそ。生きることの軸は絶対にぶらしちゃいけない。そして自分の軸は何かと考えたとき、それはサッカー選手であること。
11日間ほど本来の居場所に戻ってトレーニングに打ち込めば、再び自分が作り直される感覚になれる。負荷や苦しさを通じて体は軽くなり、よみがえっていく。細胞レベルで体が記憶していたものを思い出すように。
タイヤもエンジンもレストアされ、いつでも発車OK。「またガンガンいけるじゃん」とうれしくなる。新発売から39年たったマシンではあっても、気分はピカピカの新車になっている。これこそ最高のアンチエイジング法ではと思うくらい。
自分は「カズ」という商品を運営する事業者だと思っている。商品として人々の目に付くのは氷山の一角であって、その海面下、表に見えづらい部分にはカズをカズたらしめる広大な氷の山が隠れている。準備、努力、継続、オフの間の自主トレなどもそう。
見えない部分の工程が大ざっぱでもケーキは作れるだろうし、それでも売れる時はある。人知れぬ努力なしで、成功する人もいる。多くのベテラン選手は、見えづらい部分の苦労の大きさと、もたらされる成果が釣り合わなくなるゆえに「割に合わない」と手を引いていく。
そんな見えない部分の営みが嫌になり、無意味だと感じるようになったら、他のことを仕事にすべき時。僕としてはそう考えてきた。
「全然、昔と変わらないですね」とよく声をかけられる。ただ、もし僕が文字通りに昔のまんまだとしたら、時とともに置いていかれ、商品ではなく、ノスタルジーや懐かしさの対象だけになってしまうだろうね。逆説めいてくるけれども、変えるべきものをうまく変えられているから「変わらない」でいられる。
稼働し続けていたい。骨董として博物館に飾られめでられるものでなく、いま、人々が求めるものに応えうる「変わらぬカズ」として。