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10月28日で「ドーハの悲劇」から30年と聞き、振り返ってみると、「オフトジャパン」が始動してあの試合終了に至るまでの1年半ほどは、4年間くらいの濃密な時間だったように思えてくる。
1992年夏、オフト監督が就任した日本代表の初めての海外遠征。オランダへ取材に来た記者は2人ほどだった。翌1993年の2月、ワールドカップ(W杯)米国大会予選に向けたイタリア・レッチェでのキャンプでは、見守る報道陣は100人超へ膨れ上がっていた。
予選最終戦はテレビ世帯視聴率が48%。日本が初めてW杯出場をつかもうとしているその一事が、国民をひき付け、社会現象を引き起こしていた。
思わぬ終局を迎えたあの瞬間、すべてが無意味に思えた。自分たちの積み上げたものが一斉に、ガタガタと崩れていく音が聞こえた気がする。日本の初タイトルとなるダイナスティカップ制覇、アジアカップ優勝、数々の最優秀選手賞……。走馬灯のように頭を駆け巡って、「なんのために」という思いとともに、例えようのない「無」が自分を襲った。
あれから様々な「ジャパン」が代表の歴史を彩ってきた。それでも日本サッカーは折に触れ、あの瞬間へ立ち戻る。これはブラジル代表でもそうで、難事に直面するたびに、自国開催の1950年W杯での「マラカナンの悲劇」が思い起こされる。栄光、挫折、肯定、反省、サッカーを語るうえで参照となるもの。DNAとして消えることなく、今日につながっているのがドーハの悲劇なのだと思う。
あのピッチにいた一人、森保一監督は昨年のW杯でドーハにおいて監督としてドイツとスペインに勝った。だからといって、30年前に喪失したものを取り返せたとは感じていないだろう。僕自身でいえば、あの日の「無」を乗り越えられたのかどうか分からぬまま、抱えながら、サッカーを続けている気もする。
人間だから「天国」を考えてしまう。頑張ればその目的地にたどり着くのではと。でも、天国は逃げていく。1億円を手にしたら人は満足するだろうか。どうしたらその1億円を10億円にできるか、考え始めるんじゃないだろうか。1億円が使い放題になって遊び倒せる天国よりも、その1億円を目指して頑張っているときのほうが、案外、幸せなのかもしれないね。
何かをつかもうとしているけれども、つかみきれない。つかめると思わない方がいいのかも。それでも、つかむために進んでいく。意味のあるなしに、揺さぶられたとしても。僕もまた、そうした人間の一人なのだと思う。