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競泳の池江璃花子選手が闘病から復帰して五輪の出場権をたぐり寄せたことは、僕ら凡人が語ることのできるレベルを超えた話のような気がする。ついこの前までは、彼女が泳げただけでもすごいことだった。
競泳ができなくなる、仕事ができなくなる。そうではなくて、これから自分が生きていけるのかという地点から彼女の絶望との戦いは始まっている。その体験をした人でなければわかり得ない次元の話だ。治療が順調であっても、ベストな自分にすぐ戻れるわけじゃない。体力を失い、再発の怖さやプレッシャーと向き合う時期もあっただろう。
僕は54年生きてきたけれど、命に関わる病魔に襲われたことはない。彼女が直面した過酷さには想像が追いつかないし、うまくコメントなどできない。絶望のレベルが違う。
そう考えると僕がこれまで味わった絶望などは、自分が頑張ればなんとかなるという類いのものだ。僕らの次元の話でいえば、サッカー選手が気落ちする状況や苦境に遭遇したとき、まず立ち戻るべきはしっかり自分をコントロールすることだと思う。自分の意思をどこへ向け、何に集中し、何から手をつけるか。まずは自分自身と戦うんだ。
例えばチームが6連敗、絶不調にある。あるいは出場機会をつかめない。すると人は、クラブがどうだ、監督がああだと、とかく周りのせいにしがちになる。
自分のコントロールの及ばぬものを変えていくことは難しい。ただし僕や横浜FCが直面している困難は、自分たちで変えていけるレベルのもの。仮に「絶望的」という形にみえたとしても、頑張りうるカテゴリーだし、恵まれているといってもいい。そして意識の矛先を自分へ向けられる人間が多いほど、チームとしても、良化へ向かう糸口をつかめるんじゃないかな。
やけのやんぱち、みあげたもんだよ、わたしゃ入れ歯で歯が立たない――。映画の寅さんのようにたわいないたんかを自分に切って、心乱される現実にも何か楽しみを見いだし、自分で自分を奮い立たせていく。アスリートの僕らは好きなことをやれている。好きにもつらいことは付き物だけど、誰に対してでもなく、自分に常に厳しくありたい。苦しさからの脱出法はたぶん、そこにしかないから。