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島根県の立正大淞南高校サッカー部に関わる知人が、心を痛めていた。先月、部で新型コロナウイルスの集団感染が起きてしまったときのことだ。「この町から出て行け」。あしざまな敵意は生徒だけでなく、家族へも向けられ、選手の心がやられてしまうという。
コロナはまだ治しようがある。でもコロナで受ける社会的な誹謗(ひぼう)は、ウイルスよりも怖いんじゃないだろうか。病気になった人間にかける言葉は、まずは「お大事に」じゃないですか?
FCバルセロナを離れる意思を示したメッシも裏付けのない物言いに傷ついたと聞く。「カネ目当てだ」「同僚と仲たがい」などといった心ない文字の暴力に、あれだけ実績のある名選手もさいなまされる。
ことサッカーに関する事柄なら、何を言われても「励まし」だと僕は受け止めてきた。見向きもされないのはプロとしては寂しいしね。だけど「果たしてこれは激励なのか」という言葉も浴びてきたし、どこまでは励ましでどこからが中傷か、はっきり区切られるかは怪しい。
事はサッカーだけに限らないんだろう。大人が中傷の言葉を応酬させていて、学校で子どものいじめがなくなるわけがないよね。
人間が自分には甘く、他人には厳しくなりがちな実例なのかもしれない。あるいは自分は不幸だと感じている人の多さの証しなのかもしれない。不満を抱えた人は、正しいことを「正しい」と認識できなくなる。
サッカーという小さな社会でも同じだ。試合に出られる選手は幸せ。でも出られない選手は、良い内容のはずの監督の発言でも、心に響かなくなる。誰もが、出場のため頑張っている。それでいて枠から外れればそのたびに悔しく、腹が立つ。罵声の一つでも浴びせたくなる。僕だってそうだ。
この種の悔しさなしでは選手の生命力は枯れてしまう。けれども僕らはその力を自分へ向けて、「自分の努力が足りないんだ」と中和し、罵りではなく前向きなエネルギーへと変えていく。
努力は報われる。そう諭す人の隣で「そうはいっても報われない努力もある」と不満が唱えられる。でも報われないのは、報われるに値する努力がまだ足りていないということなんだ。おそらくはね。
そう思えるか。なかなか難しい。それでも僕は、そちら側の人間でいたい。