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「うまい話は信用するな」。ブラジルへ渡る際に言いつけられて以来、このスタンスが癖になってしまっている。信頼に足る大手銀行から金融商品を提案されても「そんなに利益が出るなら、あなたがされればいいのでは?」と警戒してしまう。不動産業の方に会う度に「僕をだまそうとしていませんか」と応じていたら、「そろそろ信用してくれませんか」とあきれられた。
でも人間は弱いから、選手を悩ませる体の痛みが「完治しますよ」と言葉巧みに持ちかけられれば、尋常でない額であっても僕もだまされてしまうかもね。大事なのは、負ったリスクの責任はすべて自分自身にあるということ。僕が購入したマンションが値崩れしても、売った人は恨めない。誰かのせいにもできない。投資した自分の責任だ。でなければサインもハンコもすべきでないんだ。
「生きたカネを使え」とも教えられた。社交の一晩に何十万円も費やしても、そこでの時間や人間関係がより高い価値に転じることがある。思い返せば、人付き合いに関して「使いすぎた」と悔やむ出費は不思議と少ない。ただ、そう振り返られるのは充実した今を送れていればこそだろう。
未来を生み出すものは過去の積み重ねしかなく、過去が未来をつくる。でも僕は逆も真なりと思う。いわば“未来が過去をつくる”。貧しく苦しい時期を過ごしても、後に幸福になれれば美談として語られる。昔の手痛い失敗も、今が上々なら笑い話に変わる。一方で輝かしい偉業をなした人でも、あすに事件を起こせば、その過去は一転して灰色に寂れていってしまう。
人の羨む実績や功績などは、僕に言わせれば、すぐ忘れ去られる薄っぺらいものだ。代わりに僕のそばに常にあったのは危機感でしかない。過去が膨らんでいく年ごろになるほど、それを輝かせるのは未来なのだとより強く感じるようになった。だからこそ、あらん限り今を頑張るのだと。
過去が未来を約束するという発想に“だまされてはいけない”のかもね。おいしい食べ物はえてして脂肪分やカロリーが高めで害にもなり、「これで天才になれる」とうたう練習法には怪しいにおいがする。何事もうまい話には裏があり、美しい異性にもある種のワナが――。
いや待てよ。女性には、むしろだまされたいね。