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世界のあちこちで生きてきたからか、どうも元号よりも西暦になじんでしまっている。2002年は日韓ワールドカップ(W杯)と結びついているし、1978年と言われれば「アルゼンチンW杯の年」とすぐ思い浮かぶ。僕がブラジルに渡った時として覚えているのは1982年。ではそれが昭和何年だったかと聞かれると、ピンとこない。
平成というこの30年間で世の中とともにサッカーも変わった。今なら1発退場になりそうな背後からの激しいタックルも、昔はごく普通だった。「今はユニホームを引っ張られ、ちょっと腕が絡んだら笛を吹いてもらえる。現代のアタッカーの方が楽かもね」と語るのは1990年代の名手、僕と同い年のバッジョ(イタリア)。一方で現代サッカーは昔よりコンパクトで、自由なスペースを与えてもらえない難しさもある。
欧州サッカーも携帯1つでいくらでも見られるなんて30年前は想像できなかった。今は昭和のサッカー日本代表もネット動画で追体験できる。30年前に大人気だったチェッカーズの歌を我が21歳の長男が口ずさみ、マネをして、美容院で「フミヤさんみたいにしてください」と言えちゃう不思議さ。
江戸時代が舞台の小説を読んでいたらこんなセリフが目に留まった。「筑前からお江戸へこの噂が届くのに、1カ月しかかからないんだぜ。このスピードの時代にお前は何をぼやぼやしてんだい」。250年前は250年前で、前の時代に比べれば気ぜわしく感じていたのかもしれないね。
昔は不便だった、というのは決めつけでね。スマホがあるから、なくなると不便に思うわけで、ないのが前提の頃は不便でもなかった。ブラジルで過ごした青年時代、昭和の初期に移民された方々はしみじみと言っていた。「カズちゃん、今は便利な時代になったね。日本からの手紙がたった1週間で届くのだから。もう何でもある時代だね」。
3カ月遅れて船便で届く日本の雑誌が、有り難い贈り物のように思えた時代。通話アプリで5分後に返事しないと「読んで!」としかられる現代からすれば、不便どころかふびんに思われるかもしれないけれど。
僕もブラジルから手紙を毎日書いていた。楽しみな日課であり、遅いなどと感じもしなかった。受け取る人はどう読むだろう、次は何を書こうかな――。日系人の先輩方も、同じようにその1週間を味わっただろう。
江川卓さんの投げる球に心奪われた子どもの頃、周りの大人は「昔に比べたら稲尾(和久)みたいな個性のある投手が減ったな」と言っていた。で、今は今で「今の選手は似たり寄ったり、個性がない。江川みたいな怪物は……」と嘆く。サッカーでも似たようなもの。
世の中が変わっても、人の言い草はさほど変わらないものだね。それこそ「近ごろの若いやつは」は、紀元前から繰り返されてきたんじゃないかな。「今の選手は」「あの時代は」。そうひとくくりで語られたくはない。おうむ返しで子どもから「まったく令和世代の親は」と言われちゃうよ。何事も時代ではなく、人によりけり。
新人類、無気力世代、モーレツ社員。ゆとりに、さとり。そんなくくりの道具として平成を使うのは、言葉のトリックだよね。僕もベテランなどと安易にくくられることなく、令和を走り抜けたい。