BOA SORTE KAZU

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BOA SORTE KAZU

“サッカー人として”  2017年09月01日(金)掲載

“サッカー人として”
2017年09月01日(金)掲載

心に「秘訣」なんてない

 1997年のちょうど今ごろ、今思えば自分でも異様なまでの気持ちの高ぶりがあったことを覚えている。僕は日本代表として静岡県の御殿場でキャンプに臨んでいた。ワールドカップ(W杯)最終予選、ウズベキスタンとの国立競技場での決戦が迫っていた。


 武者震い、というものだろうか。平常心でやればいい、今までしてきたことをピッチで出せばいい――。そんなレベルは振り切ってしまう心の震え、というか。自分はエースだった。「俺が決めないとダメだ」。一生懸命やれば、の一言ではとても割り切れないプレッシャーがあった。


 不思議なもんでね。それが大観衆の国立のピッチに立つと、スッと心が落ち着くんだ。移動のバスの車中や控室での方が「勝たなきゃいけない」「ゴールをどう取るんだ」「負けたらどうしよう」などと色々なことを考えて。ところが通路を渡ってピッチへと踏み出せば、理由は分からなくても自信が湧いてくる。大歓声を、自分の力として受け止めることができる。


 たぶん、今の代表のみんなも似たような感覚をたどっているのだと思う。それが僕らの「習性」なのかもしれないね。


 ホームでの大一番、思いを巡らせる理由なら一人ひとりにあるだろう。誰もが緊張に襲われる。怖くもなる。でも相手もそうだと思うよ。怖さと向き合うのは日本で戦う相手も同じでね。


 ある意味でW杯予選は本大会よりも“面白い”かもね。本戦はお祭りの空気もあって、逼迫感でぎすぎすするほどではない。けれど予選ともなれば、隣国のライバルと火花散らすわけだ。しかも生きるか死ぬか、天国か地獄か、という局面に必ず立たされる。


 「日本には負けたくない」「何とかオーストラリアだけには」「南米一は俺たちだ」。政治をサッカーに絡めるべきではないけれど、どうしてもお互いの昔からの歴史、国民感情がその一戦に織り込まれる。ペレかマラドーナかという対決が、ネイマールかメッシかという新たな物語へ置き換えられていく。何層にも重なり、それだけに激しく、緊張もする。だから胸躍る瞬間もやってくる。


 巡り巡る大勝負に求められるものは何か。「ノン・テン・セグレード」とブラジルではよく言うんだ。体と心をいい状態に、いい準備をする。特別な秘訣(セグレード)などはない。そう心からスッと思えるのなら、少なくとも乗り越える準備はできているんだ。