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東日本大震災の慈善試合として、ACミラン(イタリア)の往年の名選手が来日してJリーグOBと31日(2011年8月31日)に仙台で戦うことになり、僕も特別ゲストとして招かれることになった。ジェノアの選手として1994~1995年シーズンに戦って以来の「ミラン戦」だ。もう今回は鼻と目をケガなどしないよう、バレージさんにも言っておきます。またとない機会だし、得点だけは取らせてもらいますよ。
サッカーの歴史がまだ浅い日本では、現役を終えればその選手も「終わってしまう」ことが多いけど、イタリアではクラブの歴史に貢献した選手が引退後も影響力を持ち続ける。ミランの今があるのは彼らのおかげ、と敬意を払われながら。
セリエAを離れて月日も流れた2001年、旅行でジェノアを再訪したとき。ジェノアからナポリへ飛行機で飛び、預けた荷物を受け取ると「グラッツェ」と貼り紙が。やられた、泥棒だ……、と思ってよく見ると、「グラッツェ。ダービーでのゴールをありがとう」。1994年12月に宿敵サンプドリアから奪った僕の得点を忘れずにたたえてくれる。やり方がしゃれてるよね。
4年ほど前にジェノア戦を現地で観戦したら、ハーフタイムにマイクを向けられた。生中継でスタジオから話しかける解説者はかつてのチームメイト。「先週ちょうどジェノアダービーで、ダービーでジェノアが勝ったのはお前がいた1995年以来でさ。お前の映像も流れて、みんなで『懐かしいな』と楽しんでいたんだ」。
イタリアに一年しかいなかった僕がこうだから、ミランの黄金期を支えた選手となれば語り継がれるワンプレーがいくつあるか分からない。3度のご飯そっちのけで、みんなが栄光をもたらした存在をたたえ、味わい、楽しんでいる。
あのジェノア時代の体に現在の僕の心があれば、どんなプレーができただろうと想像したりもする。でも、僕はまだ成熟していないからこそ続けていられるんだ。30代後半のときすら頭のなかは粗削り、本能のまま。ピッチでこう動くとチーム全体のパズルがこうかみ合うのかと、最近になって次々と発見することばかりで。
僕が今学びつつあること、つまりサッカーを20代で理解してしまう選手もいる。でも未完成な僕には広がる余地もある。だからまだまだ先があると思うんだ。