©Hattrick

幸いなことに、周囲の人々や家族の理解と思いやりに助けられ、仕事であるサッカー以外のことにストレスを感じることの少ない人生を送ってこられた。
もっと大きなストレスから逃れられない人々が、世の中にはたくさんいる。その前提の上で、僕にとっての最大のストレスといえば、「サッカーができなくなること」だと思う。
2週間たっぷり休めるはずのオフでも、3日もじっとしていられない。ケガをして、走ることすら取り上げられるとなると、これほど苦痛なことはない。
満足のいかないケガの期間には、医者など専門家に「この状態でやれることは何ですか」と必ず聞く。痛む箇所に負荷のかからない練習、これを機に体の別の部位を鍛える、あるいは治療を最優先するなど、前向きな道を探す。
もっとも、医者は僕が何でもやり過ぎるきらいがあることを見抜いていて、先回りして、あきれ気味に指示を授けることになる。「サッカーのことを考えず、遊びにでも行ってください。スーツを着てカラオケでもいいですよ、よっぽど体の負担にならないから」
育児に疲れた母親がノイローゼになり、我が子を死に追いやってしまうドラマを見た。相談もできず、一人で追い込まれた人間の陥った「闇」。それは特殊なことではなく、自分のすぐそばにも穴を開けているのでは――。裁判のシーンで陪審員たちはそんな思いに襲われることになる。
「鬱は大人のたしなみ。それくらいの感受性を持っている人でないと、僕は友達になりたくない」とある文筆家は語った。社会には問題山積、人間関係は崩れやすい。敏感な人ほど気はめいるし、不安になる方が自然。そのくらい現代人はストレスにさらされているという見解には、うなずける部分もあるんだろう。
サッカー界でも、とりわけ海外では周囲からのプレッシャーが尋常じゃない。ものすごいストレス環境であって、SNSでの「声」が拍車をかける。ブラジルだと僕がいた40年前でも、ユース年代にさえ相談先のメンタル専門家がついていた。ケア・サポートの必要性は現代、より増している。
日本人は、無理して「大丈夫」と繕いがちじゃないだろうか。監督に状態を聞かれ、本当は痛くて限界なのに「大丈夫です」と言ってしまう。でもトレーナーには真情を漏らしていた、なんてことも。監督は説明を信じる。結果、無理が重なり壊れてしまう。
僕が接してきた外国人選手でいえば、近い人たちに打ち明けた実情と、監督・上司に対する説明が食い違う人間はまずいない。痛いときは「痛い」とはっきり言い、休みたいときは「休む」と主張する。
上手にサボるというと語弊があるけど、逃げ道をつくっておくのも大事じゃないかな。抱え込まず、時には心をさらす。ストレスからのいっときの回避、その逃げは「悪」じゃない。
日本代表の負けられない試合で、得点を求められてピッチに立つ。結果を出さないわけにはいかない。30年前、あの異常なストレスをどう切り抜けていたのだろう。緊張や重圧を力に変えようと必死だった結果、うまいこと結果がついてきてくれた、というあたりかな。5万人の歓声の渦中でゴールし、勝利できて湧きたつ興奮。プレッシャーが存在しても、また味わいたいと思わせるその先の快感。ある種、病的かもしれないね。
「5万人の快感」とはご無沙汰になっている。でもそれ以来、僕は客がいようがいまいが、何気ない練習時の一コマだろうが、いいプレーができたときに同種の報酬を感じるようになった。ドリブルで抜けた。理想のシュートを打てた。ささいなことだ。でもその小さな喜びが、ストレスを和らげ、忘れさせてくれる。
ストレスと戦うみなさんが、そんな小さな光を見いだされることを願う。