BOA SORTE KAZU

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BOA SORTE KAZU

“サッカー人として”  2024年03月01日(金)掲載

“サッカー人として”
2024年03月01日(金)掲載

親と子と

 57歳となり、こう年を重ねていくと、自分ではそうじゃないと思ってはいても、いつの間にかそういう存在になっていることがある。頑固になる、口うるさくなる、若い人の感覚になじみづらくなるだとか。


 例えば父親について、あまりまねしたくないと思う部分があったとしても、知らず知らずに似てくる。僕もそう。


 いいところだけでなく、「嫌だな」と思うところも併せ持っているのが、親というものなんだろうね。とりわけうちのおやじは豪放で、普通ではない考え方をするというか、絶対にマネしちゃいけないと思うところも多々あった。余命が残り2カ月ほどに迫っても、息子の僕に金もうけの話を持ちかけてきたときには「まだそんなことを考えているの」と驚くしかなかった。


 そんなおやじは自分の中では「最強」で、超えられたと思ったことはない。よしんば僕の方が多く稼ぎ、社会的な影響力を持ち得たとしても。子にとっての親とはそんな存在じゃないかな。清濁ひっくるめて、存在のまるごとを通じて、様々なことを僕に教えてくれた。


 おやじが望むことに応じ、尽くしてきたつもりでも、亡くなってみるとあれも、これもできたのではと次々と思い浮かんでしまう。「もう俺はカネも何もいらない。命だけがほしい」なんて言葉は一度も聞かなかった。息子の僕でさえだまされそうなほどに貪欲で、目を輝かせ、死んでもおかしくない肝硬変で倒れてから30年近くも生きた。弱々しくしぼむでなく、息を引き取るその時まで、おやじらしく最強だった。


 かくいう自分も、親でもある。ただしサッカー選手として生きる僕は家に帰ってきたかと思えば、またどこかへ行ってしまい、フーテンの寅さんみたいな父親だ。息子2人の小中高校の担任の先生を挙げろと言われても、恥ずかしながら一人も思い浮かばない。


 それでも、どこにいて何をしていようが、息子たちは僕の子どもで、どんなことがあろうと誰が何を言おうと、おやじと母親は僕の親だ。離れていても安心感のある、「近さ」を常に感じられる存在。それが家族なのだと、ブラジルに渡った15歳のときから強く感じながら生きてきた。


 最期の姿でもって、親は子に死というものを教えるのだと聞く。今でも、あの不死身のおやじが本当に亡くなったのだろうかという感覚にとらわれる。言い方を変えれば、父親は心の中で生き続けている。手を伸ばせば届くようなところに、実体を感じることができる。