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能登半島地震で被災され、新年どころではなく大変な思いをされている方々に、心からお見舞いを申し上げます。阪神大震災から29回目の「1・17」を迎えてもいる。様々な災害からの傷が、少しでも早く癒えることを願います。
この年末年始、僕のほうは12月30日にリーグ戦、1月1日も午後からチーム練習に出ていた。というのも1月6日に試合があったからで、12月31日も午後はゆっくりしたものの、練習に備えて早く寝たし、節目を迎えた感覚がどうも薄い。
喪中の身でもあり、ことさら抱負を改めるでもなく、これまで通り日々を走り抜きます。本年もよろしくお願いします。
アジア・カップの日本の初戦を見たら、ちょうどベトナムが2-1でリードしたころだった。奪われたら大ピンチのエリアでも、強敵に臆せず、勇敢にボールを動かしている。昔の僕らのようだなと、重ね合わせながらみていた。
1992年、オフト・ジャパンの初陣の相手はアルゼンチン。あちらは1986年ワールドカップ(W杯)優勝、1990年も準優勝と力の差は歴然で、劣勢やむなしと思っていた。でも不思議と僕らが試合を支配できる時間も生まれ、その事実が自信を与えてくれた。成長を実感することができた。
「アジア・カップは国内組で優勝できないのか」「欧州組は呼ばなくてもいい」といった意見を耳にする。ただ、アジア全体のことも考えると、どうだろう。
選手は自分第一で考えるものだ。自分はどこで最も価値があるか。それが代表なのか各国のリーグなのか、価値観はそれぞれでいい。欧州有数のクラブで活躍できているさなかにそれを手放すのだから、僕もその立場なら「シーズン後の6月にしてよ」と思うだろう。
クラブ同士の欧州チャンピオンズリーグ(CL)の方が、代表による大会よりレベルが高いといわれればその通り。欧州CLの8強ともなれば常設の世界選抜みたいなものだから。ただ、だからといってアジア・カップをスルーするなら、アジアはレベルが一つ落ちるという欧州の目線を暗に追認することにもなる。
トップ選手が集えば大会の格は上がり、本気の相手と戦えることでアジア全体が成長していける。かつての日本がたどったようにね。大会が価値あるアジア最高峰の舞台だと示すことは、レベルの観点と同じくらい大事だし、でなければいつまでもアジアのステータスが上がっていかない。
リバプール(イングランド)での栄冠ならば事欠かないジェラードでさえ、イングランド代表でプレーすることは「クラブとは別物で、緊張した」と語った。自分が形づくられた場所、文化への思いや誇らしさとともに戦うことは、レベルだけでは片付けられない何かがある。だからサラー(エジプト)もモドリッチ(クロアチア)も、失うものもあるだろうに、代表へ駆けつける。
そんな目で、アジアで戦う代表たちをみてほしい。