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サッカー選手はプロとして契約を結んでいるのだから、行動の責任は自らが負うと考えてきた。「髪を染めるのは禁止」といったルールはあえて必要だろうか。風紀の乱れがプレーの低下を招き、金髪姿が反感を買うとしたら、それらも含めて行動の結果に対する代償は選手個人が払うべきだ。一義的な責任は組織よりも個人の側にある。ただしそれは契約社会での話。
普通の感覚では理解しがたい、許しがたい問題や事件に世の中で出くわしたとき、特定の「普通でない人」がしただけのことだ、では片付けられない気が僕はしてくる。楽しそうに遊ぶ学童の群れがある。こんなに無垢(むく)な存在がどこかで加害者に転じうるとしたら、誰に責任があるのだろう?
人間の口って、閉じたままではいられないのかもしれない。試合に出られるうちは精神的に安定しているサッカー選手も、出られなくなるとすぐ監督や組織への不満がついて出る。恥ずかしながら僕も例外じゃない。生の感情を言葉として発してしまうときがある。
ある日、行列のできるそば屋に知人と並んだ。「食券を買ってくる」と列を離れたら、その彼もついてきて、並んでいたはずの場所を取られてしまった。最後列から並び直しだ。「あのさ、並んでいてくれよ。なんでついてくるんだよ?」
後になって言い過ぎを後悔した。「そこで待っていて」と説明する配慮があったか。自分が慌てていただけじゃないか。そういうのが、プレーにも出るんだよ――。
自分は特段、不自由のない生活をさせてもらっている。ただ、卑屈にならざるをえない生活を強いられたとしたら、僕も自分以外の「恵まれた人」を恨み、妬んでしまうかもしれない。負の感情から完全に自由でいられる人の方が少ないんじゃないかな。人の闇は深く、危うい。
でも、言葉に出してからそれを反省する人と、言いっ放しの人とでは、人としての居住まいが変わってくる。物事を誰かのせいにするより、自分へ矢印を向ける。心がけてそう行動しようとする人と、しようとしない人では、明らかに違う。
どんな闇があって、一国の首相を任された方が撃たれて命を奪われなければならなかったのか。受け止めきれないままでいる。ただただ、心からご冥福をお祈り申し上げたい。