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ハットトリックを決めた試合で、出迎える監督の一言が「おまえは得点王になりたくないのか?」だったことがある。「きょうだったら6点は取れたぞ」と。この憎たらしい監督に負けてたまるかと、良くも悪くも、仲間ともども闘争心をかき立てられたものだった。
練習メニューが選手を飽きさせない、テンポもいい、その人の人間性も表れる。そういうコーチの下だと選手はグッと乗っていける。概していいコーチは、やろうとすることが50あったとしても、選手の状況次第では30に減らしたり、足りないとみれば60へ増やしたりなど、臨機応変にコーチングを変えられる。
監督である兄と僕が、日本代表戦の話をすると、同じ試合でも見方はだいぶ異なってくる。僕は選手目線でプレーを見るし、兄は監督の視点で試合の変化や采配に目を向ける。それほど捉え方が違うわけだから、僕ら選手が指導者の真意をどれだけ分かっているかとなると、心もとない。逆もまた、同じじゃないかな。
監督が「きょうは最高の練習ができた」と達成感に浸るとき、選手の方は擦り切れてボロボロ、最高だなんて感じられないのはよくあること。指導される側の気持ち、指導する側は知らず。そんな具合にすれ違うから、教えるという行為は難しいんだろう。
ただ、監督は選手の心情を分かりすぎても仕事はしづらい。情を挟みすぎると必要な判断に差し支える。僕はまれに、ある時間帯で自分に交代を告げる監督の気持ちを理解してしまう瞬間がある。でもそれを受容できることは、選手としてあまりいいことでもない。
ある教育を早くから受けてこの学校に入れば、必ずいい人間になれる。そんな教育はうさん臭いように、「これをすれば勝てるコーチング」も疑わしい。どんな形であれ暴力は許されないのは絶対として、権限の行使を伴う指導が良いものになるかどうかは、そこに愛といえるものがあるかないか、じゃないかな。指導する側でなく、される側や周りの人間が「ある」と感じられるかどうか。心に炎を、受け取れるかどうか。
ある行為を、痛みと感じるか気持ちよいと感じるかは人それぞれ、場面によりけり。日本代表の長友佑都選手に向けられる批判はある種の暴力といえるけど、本人はそれを力に変換していると聞く。特殊能力? いやいや、人の心の奥底はそう簡単には分からない。働きかける側もかけられる側も、そういうデリカシーを持ち合わせていたいね。