BOA SORTE KAZU

  • Home
  • Message
  • Profile
  • Status
  • Column
Menu

BOA SORTE KAZU

“サッカー人として”  2022年03月25日(金)掲載

“サッカー人として”
2022年03月25日(金)掲載

愛深き「先生」をしのんで

 3月20日に亡くなった納谷義郎さんは血のつながった叔父であり、静岡の城内FCで教わった監督であり、親の代わりに僕を導いてくれた先生でもあった。義郎さんと過ごした小中学校の9年間は、あの年代でしか味わえぬ濃密な時間だった。


 ものすごく厳しく、ものすごく温かかった。教員ではない義郎さんは生徒の振る舞いをチェックしに定期的に学校へやってくる。自分のサッカーショップの名が輝くバンで乗り付けて。


 バンを駐車場に見つけると、僕らはみんな憂鬱になる。きょうは何を怒られるんだと、素行の悪い不良でさえ戦々恐々としてくる。悪さが判明しようものなら、午後の練習で「おまえは」と呼び出され、バシッ。


 学校で怒られていたら義郎さんが教室に飛んできたこともある。先生の前で僕を袋だたきで叱りつける。あまりのけんまくに「もう、そのくらいで……」と先生がなだめる事態に。


 真正面から僕らに向き合ってくれた。意味があるからこそ叱り、少年が変な道にそれぬよう、体を張って守ろうとしてくれたことで僕は救われた。昭和っぽい熱さだと言われるかもしれない。ただ、教え、教えられて育つという人間の関係性の根元は昔も今も変わらないんじゃないのかな。


 「帰りたい、じゃない。おまえは『帰れない』んだ。あれだけ覚悟を決めたのだから、帰ってくるな」。ブラジルへ旅立つ僕に、あえて鬼になってくれた。15歳なりに「そうだよな」と思えた。異国で自分を見失いかけたら、あの言葉が重みを伴ってよみがえってきた。


 負けることよりも、勝負を避けて逃げるプレーを怒った。ドリブルで9人抜いて、10人目でパスを出したらとがめられた。そのくらいドリブルや個人の技を磨くことに愛を注いでいた。


 それは義郎さんたちがブラジルサッカーの薫陶を受けていたから。うちの父親は1970年大会から、義郎さんも1974年大会からワールドカップ(W杯)を現地に見に行っている。日本人がW杯なるものを認識する20年以上も前から、圧倒的な個人の技が織りなすサッカーのロマンを追っていたんだ。


 ありがとう、義郎さん。世界一の場所でプロになるんだ、W杯を見るのではなく出るのだと僕が思えたのも、叔父さんたちが世界を見ていたからでした。