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ワールドカップ(W杯)最終予選のオーストラリア戦は紅白歌合戦さながらに家族総出で見守っていた。相手にFKのチャンス。「入らないから。絶対大丈夫」。みんなを落ち着かせるように僕が言った。どうしたことか、入っちゃった。もう僕の責任のように妻や息子から怒られる。「入らないっていったじゃない! どうしてくれるのよ!」
それぞれが熱い視線を注いでいる。戦術や采配を厳しくたたく人もいる。僕は自分にそのつもりはないはずでも、どうしても一緒に戦う仲間としてかばいがちになる。ときに冷静な判断さえ奪うあのプレッシャーも監督の苦労も、我が事のように感じ取れてしまう。
思えば「ドーハの悲劇」の1994年W杯米国大会予選は韓国、北朝鮮、イラン、イラク、サウジアラビアが一堂に会していた。政治信条の相いれない国々が同じホテルに滞在する。敵味方を1カ所にまとめればテロは起きないだろうという配慮だったと聞く。拳銃を下げた警官が所々に常駐し、漂うのは一触即発の緊迫感。
そのイラクも北朝鮮も、みんな願いは「アメリカへGO」。どんなジョークなんだと今となれば思うけれど、ああなるのもW杯予選ならではなんだろうね。
応援も批判もエネルギーに変えられるのが代表選手だと思っている。いろんな意見があっていい。「なぜ点を取らないのに出続けるんだ」といった批判を受け止めるのも僕ら選手の務めのうち。森保監督の表情をみれば、相当な外圧を浴びていたのだと分かる。でもこれで、彼はさらにいい監督になれるはずだ。
同世代の戦友である彼も含め、日本代表という存在が批判されることは自分が批判されるのと等しいと思っている。「日本人監督では無理。外国人監督でないと」といわれるとしたら、Jリーグができて30年、W杯に6回出場してもなお、僕ら日本サッカー全体がその程度だとダメ出しされるのと同じじゃないかな。
代表が批判にさらされるとき、チームや森保監督だけが責められているとは僕は考えない。その否定は自分にも向けられている。代表の戦いは、実際にやっている人だけの戦いじゃないから。悔しいですよ。
悔しいなら勝ってみろ。そうだろう。ならばその声さえ力に一段と頑張ってみせる。もしも勝てない代表が「最低だ」といわれるなら、招集されない僕らはそれ以下の最低だ。けれど、最低には最低なりの生きざまがあるんだ。