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9月10日に招かれた日本サッカー協会創立100周年式典で、映し出された若かりしセルジオ越後さんによるサッカー教室の映像が懐かしかった。僕もまた、あそこでサッカーなるものを教わった1人だったから。
セルジオさんと僕らが1対1で勝負をする。「お、靴のひもがほどけているよ」とセルジオさん。え、と下を向いたすきに抜き去られる。「あっ」と指を指して、「何?」とそっちへ気をそらせて出し抜く。あれはフェイントというプレーの本質のような気がする。サッカーの根源にある遊びの要素、面白み。世界が開けたようで、楽しかった。
そうした先代の方々の工夫と熱意が積み重なって、日本は日本なりのやり方で発展してこれたのだと思う。では、何かと過渡期のこの先の10年はどうなるだろう。
僕が子どものころは親戚一同がテレビを囲んで紅白歌合戦をみたものだった。「郷ひろみの声は好きじゃないね。西城秀樹がいいよ」とおばあちゃんが言う隣で、僕は心の中で「あの声だからこそ郷さんはいいんだよ」とつぶやく。世代の分け隔てなく、同じものを話題にしてね。
そんな昭和テイストは我が三浦家にも引き継がれたみたい。子が親に気兼ねなくよく話すし、一家で出かけたディナーを終えて息子にどうするのかと聞くと、「母さんたちとドラマをみるから帰る」という。父親だけが夜の街へと行方不明。
ただし今ではスマホで個々人が、それぞれ見たいものを見られる。「自分のチャンネル」で好きなものだけみる人が出てくるのも自然な成り行きで、みんなを1つのものへ引き寄せる力は、昔のようには働きにくいのかもね。
五輪などの大イベントともなれば、行く先知れずのお父さんだって見るために帰ってくる。サッカーも含めたスポーツの日本代表戦にもそういった力がある。その点で南米やヨーロッパのサッカー文化が奥深いのは、2週間に1度のホームゲームがそれらと同等のイベントとして人々の心のカレンダーに書き込まれていることなんだ。週末には他の娯楽も満載の現代の日本で、そんなふうにサッカーだけをチョイスしてもらうのは簡単じゃない。
まずは目を向けてもらう、足を運んでもらう。1万人収容の会場に2万人がくるほどとなれば、看板でも出そうかという会社も現れるだろう。あふれる1万人に弁当を売る店が立つかも。駅からバスを出そう、となるかもしれない。他の催しとの抱き合わせも悪くないし、買い物のついでに「近いからサッカーも見ていこうか」となれば理想的だよ。
発想はオープンに、アイデアをミックスして。20年先も、日本なりの観戦文化が膨らんでいくといいね。