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わずかしか入場を許されていないとしても、お客さんがいるのといないのでは大違いだなと改めて感じた「観客有り」の試合だった。いいプレー、悪いプレー、どんな瞬間にせよリアクションが返ってくる。それが選手にどれほど力になることか。見られているという感覚なしでは、成長につながる気づきさえ得られない。
選手と観衆、演者と聴衆が一対のものとして、一体になることで試合や興行が完成する。好ゲームや名演奏であっても、見る・聴く存在がいないのでは何かが欠けてしまう。たくさんの耳目が集まればそれだけ大量の期待、いい試合を見たいという熱が注がれているわけで、それに応えたい思いが緊張や重圧になる。それが選手を鍛え、育む。プレッシャーのかからない環境でサッカーするのって、つまらないものだよ。仕事ってそうじゃない?
今は通常の応援が控えられ、代わりに拍手がわく。ああいう拍手は爽やかでいいよね。これからはあの拍手を、両チームに対して送るというのはどうだろう。
ブラジルにいたころはサッカーと関係のない事柄にヤジが向けられ、今であれば人種差別にあたる罵声も浴びせられた。敗戦へのサポーターの不満は度を超え、選手のバスを囲んでひっくり返そうとする。主審に物まで投げつける。殺伐とした空気はサッカーの一要素だったのかもしれないけど、もうそんな時代ではないはず。
2011年3月の東日本大震災チャリティーマッチ。4万人の観衆すべてが、ピッチの選手全員に声援を送っていた。悲しい国難の時期、サッカーではいい雰囲気を作りたいとの観衆の思いを、どんな試合より体感することができた。またとない、幸せな時間だった。
いいものを見られたと感じたなら、どちらのチームへも拍手を送る。敵味方、属性を超えて、たたえるべきものはたたえる。すがすがしいし、それこそスポーツの最良の部分だ。そんな応援の文化を日本人がつくっていってもいいんじゃないかな。
となると敵の見事なゴールに思わず拍手しちゃうわけだから、難しいけどね。僕も相手からは大ブーイングしかもらわなかった。でも長くやっていると、ブーイングが大きければ大きいほど快感になってくる。愛憎は紙一重。認めてもらえている証しだなと、非難のはずの声をある種の愛情と受け止めちゃって、逆に力になっちゃうんだよね。