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全国に54ものJリーグクラブができたということは、100キロほどゆけば何らかのクラブにぶつかる。25年前は10クラブでスタートしたわけだから、大きな変化だよね。
消滅しそうなクラブなのに、なくならない。ブラジルやイタリアではそうで、サンパウロ州の4部へ降格し、弱体化し縮小はしても、町の人の力を借りては息を吹き返す。「トップがその人だったら協力する」と融資する救世主が現れて。
「J2に落ちたら応援してもらえない。行政もお金を渋る。だからJ1に残って」。ヴィッセル神戸が降格圏にいた2002年に会社が泣きついてきたとき、「それはおかしい」と僕は反論したものだ。お金がない? お金をかけずにやれる方法ならたくさんある。活動の定義が狭すぎやしないか、と。
そこで始めたのが小学校訪問の走り、「夢で逢えたら」だった。目先でなくもっと先、20年後をみて、僕らの存在を知ってもらう。「あるといいな」と少しでも感じてもらえるように。
熱というものは冷めていく。Jリーグが出来たての頃の熱さは、日本代表の急成長とリーグの夜明けが足並みをそろえた社会現象だった。いまはワールドカップ(W杯)1カ月前でもサッカーで沸く日々は少ない。でも、熱と呼べるつながりを町との間で温められるのなら、3部に落ちようが存続の淵に立とうが、救いの手は現れると思うんだ。
日本の若者が「行きたい」と憧れるJリーグのビッグクラブって、なかなかない。今だったら往時のヴェルディ川崎(現東京ヴェルディ)の豪華メンバーも多くは海外へ流出しているだろう。近年のセレッソ大阪も25年前なら、ヴェルディのようなスター軍団になっていてもおかしくないよね。セレッソは全国区のビッグブランド、代表クラスが続々と加入――。グローバル化した現代サッカーはそんな夢想を許さない。
ただし選手が外へ出たことで、セレッソなるものが世界で評価されもした。一方からはマイナスにみえたことが、見方を変えればプラスということがある。外で活躍する、おらが町のスター。自転車にも追い抜かれるオンボロ車に乗り、酔いつぶれて公園で寝ていた若者が、横浜FCを経て日本一のクラブの一員へ育つ。これだって勝利とはまた違う、大事な成功のかたち。