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日ごろは自分の身近にあるものでないこともあって、冬の競技は4年に1度のオリンピックを機に触れ、知ることが多い。例えばスキージャンプ。4年に1度、何秒間かの踏み切りや飛躍にすべてをかける。それでいて、その勝負の一瞬が必ずしもいい環境に恵まれるとは限らない。気まぐれな風。震える寒さ。悪条件。過酷というか、不条理にさえ思えてくる。
色々な条件がピタリとかみ合わないと、自分のパフォーマンスを出し切れないときは僕にもある。公式戦なら準備を万端に整えられる時間が設けられているけど、試合に出ていない選手にはとって勝負になる練習試合だと、遠征から戻って翌朝すぐ「本番」だ。休む時間が少し足りない、栄養を取りきれない、何らかのハンディキャップ。リズムが微妙に変わることで、結果に誤差が出てもくる。
最高のパフォーマンスをできた日があるとする。何を食べ、どう備え、どんな過程でそこへ至ったか。思い出しつつ同じ手順をなぞったのに、次回も同じにはならない体験、ありますよね? 同じ状態を再現することの難しさは、アスリートならどこかで感じるものじゃないかな。だからいろんなことが起こる。絶対王者が敗れる。予想は覆り、不安や重圧に襲われ……。
FWの僕らが与えられたチャンスにゴールを「決める力」は、実際にはチームに助けてもらうもの。周りのお膳立てがなければそこまでいけないものでもある。五輪の選手が力を出すべき一瞬で、ピタリと力を出せる「決める力」は、また違ったものなんだろう。
考えてみればストリート育ちのブラジル選手は、どんな条件でサッカーをさせてもうまい。いい芝生、固い地面、ぬかるみ。様々な状況でやってきて、本当の意味で使える技術を持っている。僕自身もブラジルに渡った10代にはあらゆる悪条件でサッカーをした。「こういう場でもプレーできなければ、本物じゃない」と言い聞かせながら。
経験とは、いろんな条件の下で戦い、生きてきた幅のことだ。そして生き残るということは、状況に順応できるということ。理想の条件ばかりは望めない。言ってみれば、僕らには泥沼しか与えられない。それでも合わせていく。越えていく。それを「力」とも言い換えられるのだろうね。