©Hattrick
高校生のとき、1限目から4限目まで寝ていたら怒られた。「廊下で寝てろ!」。おっしゃる通りに廊下で横になって寝ていたら殴られた。そりゃそうだね。
手を上げてもらって助かったと僕は感じていた。授業を妨害し、教師に悪態をついたのは僕。悪いのは自分だと分かっていたから。
僕自身は手を上げるタイプじゃない。息子に対しても。「やりたくなければ、楽していいぞ。その代わりツケは必ず回ってくる。覚悟があるならいいぞ」と言うだけ。突き放すわけで、殴る方が優しいのかもね。
いま、僕は若手をたたいてでも教えるべきなのかもしれない。「10代、20代のうちは苦しくても練習しておけ。30代で練習をしたいと思っても、できないぞ」と。だけどブラジルのプロの世界で育ち、生きてきたからだろうか。周りは助けてくれない、を人生の基本に考えてしまう。「練習したくないなら、帰っていい」。そのまま練習しない人間はそのまま落ちていく。
ブラジルの人たちは何があっても手は上げない。ただ、殴られる代わりに新聞で載せられないような強烈な言葉でののしられるよ。その文化に慣れていなかった若い僕は、暴力以上に深く傷ついたものだった。
体罰による高校生の自殺と、柔道界における暴力による指導の問題は、分けて議論した方がいいと思う。前者は許されないこと。試験が30点でも、スポーツで技術が劣っているからといっても、それを理由に暴力が使われるべきではない。
後者では、柔道界は建前を捨てた方がいいのかもしれない。「自分の世代は、できなかったらぶっ飛ばされて教わった。それで強くなったと信じ、自分もそういう教え方をしてしまった。それも含め、信じてやってきた」という本音はないだろうか。力によって指導した時代があり、時代とともに許されていたことを、まず認めないと議論は深まらない。その認識を出発点に「これから」を考えていくことでは。
この問題に正解はないのだろう。線を引く基準の一つは「愛」かもしれないね。教える側が、教えている相手をどれだけ大切に思えているか。たとえ愛が理由でも、拳を上げてはいけないときがある。大切に思うがゆえに、上げずにとどめる拳もあるはずだよ。