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鈴鹿で終えた半シーズンを振り返れば、コンスタントに出場時間をつかめたけれども目に見えるゴールやアシストを挙げられたわけでなく、チームの順位を押し上げられてもいない。
シャドーストライカーでのプレーに新たな発見を感じられもすれば、「この程度か」と自分に幻滅する試合もあった。チームは急には強くならないし、強くなるには踏むべきプロセスなるものがある。学ばされた半年でもあった。
だからといってすべてを否定し、「もうだめだ」とさじを投げるわけじゃない。
振り返ってパッと思い出されるのは、悪かったプレー。現役をしているとそうなりがちだ。失敗はより強いインパクトで心に刻まれる。
負けた。ボールにすら絡めなかった。なんの数字も残せなかった。人生最悪の瞬間かのような出来事に僕らはしばしば出くわす。なんだか自分が無価値に思えて、あれもこれも否定したくなる。
この半年、すべての試合のプレー映像をパーソナルな分析官にみてもらっていた。ドリブルやシュート、パスなどは自分でもよく覚えている。でもボールを持たない「オフ・ザ・ボール」の一瞬一瞬で、自分の動きがどう作用したかまでは知覚できないことも多い。体の向きは、手の使い方は、動き出しや判断は。逐一、フィードバックを受けた。
何もできなかったと感じた試合でも、分析のフィルターを通すと、自分が周りのためになった一面が浮かび上がりもする。無駄に思えた走りで、DFが引きつけられ、味方に有利な局面が生じている。最終第30節(1-1)についても「今の動きを続けていればいい結果につながるはず」とポジティブな分析が返ってきた。
もちろん反省はする。課題もある。でも、できつつあることにも目を向ける。自分では「そこでそのプレーは無理」と感じても、分析上・理論上はできたはずのプレーがある。そのギャップを一歩でも埋めたい。何歳になっても、理想に近づきたい。
「私は思い出よりも憧れの方が好きだ」。そう語ったフランスの登山家がいるらしい。
ありきたりだけれど、きのうの、きょうの自分を、あしたは超えたいと思いながら過ごしている。止まっていちゃだめだと言い聞かせている。
そのためには何らかの苦しみにも向き合うはずで、それは僕にとっては練習。次に目を向けるからこそ、オフでどこかへ赴くときも練習用具一式は携えていく。
先日、渡欧してリフレッシュした際も、現地で朝6時半からジムで汗した。帰国して空港からピラティス教室へ直行。「寅さん」のいでたちでローマを闊歩(かっぽ)しながらも、あのトランクには練習着をしのばせてあります。
憧れても、つかめないことの方が多いのは重々分かっている。だとしても、回想に身を沈めるでなく、苦しみの先の憧れ、未来へ向かって走る。